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十四になった。
日課は相変らず苦にもならない。暇さえあれば貸本を読む。次第に早く読めるようになるので、馬琴や京伝のものは殆ど読み尽した。それからよみ本というものの中で、外の作者のものを読んで見たが、どうも面白くない。人の借りている人情本を読む。何だか、男と女との関係が、美しい夢のように、心に浮ぶ。そして余り深い印象をも与えないで過ぎ去ってしまう。しかしその印象を受ける度毎に、その美しい夢のようなものは、容貌の立派な男女の享(う)ける福で、自分なぞには企て及ばないというような気がする。それが僕には苦痛であった。
埴生とはやはり一しょに遊ぶ。暮春の頃であった。月曜日の午後埴生と散歩に出ると、埴生が好い処へ連れて行って遣ろうと云う。何処だと聞けば、近処の小料理屋なのである。僕はそれまで蕎麦(そば)屋や牛肉屋には行ったことがあるが、お父様に連れられて、飯を食いに王子の扇屋に這入った外、御料理という看板の掛かっている家へ這入ったことがないのだから、非道(ひど)く驚いた。
「そんな処へ君はひとりで行けるか」
「ひとりじゃあない。君と行こうというのだ」
「そりゃあ分かっている。僕がひとりというのは、大きい人に連れられずに行けるかというのだ。一体君はもう行ったことがあるのか」
「うむ。ある。此間(こないだ)行って見たのだ」
埴生は頗(すこぶ)る得意である。二人は暖簾(のれん)を潜(くぐ)った。「いらっしゃい」と一人の女中が云って、僕等を見て、今一人の女中と目引き袖引き笑っている。僕は間(ま)が悪くて引き返したくなったが、埴生がずんずん這入るので、しかたなしに附いて這入った。
埴生は料理を誂(あつら)える。酒を誂える。君は酒が飲めるかというと、飲まなくても誂えるものだという。女中は物を運んで来る度に、暫く笑いながら立って見ている。僕は堅くなって、口取か何かを食っていると、埴生がこんな話をし出した。
「昨日は実に愉快だったよ」
「何だ」
2005-12-31 17:27:08 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0) |
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甚句(じんく)を歌うものがある
詩を吟ずるものがある。覗機関(のぞきからくり)の口上を真似る。声色(こわいろ)を遣う。そのうちに、鍋も瓶も次第に虚(から)になりそうになった。軟派の一人が、何か近い処で好い物を発見したというような事を言う。そんなら今から往(い)こうというものがある。此間(こないだ)門限の五分前に出ようとして留められたが、まだ十五分あるから大丈夫出られる。出てさえしまえば、明日(あした)証人の証書を持って帰れば好い。証書は、印の押してある紙を貰って持っているから、出来るというような話になる。
盲汁仲間はがやがやわめきながら席を起(た)った。鰐口も一しょに出てしまった。
僕は最中にも食い厭(あ)きて、本を見ていると、梯子(はしご)を忍足(しのびあし)で上って来るものがある。猟銃の音を聞き慣れた鳥は、猟人(かりゅうど)を近くは寄せない。僕はランプを吹き消して、窓を明けて屋根の上に出て、窓をそっと締めた。露か霜か知らぬが、瓦は薄じめりにしめっている。戸袋の蔭にしゃがんで、懐にしている短刀の※(つか)をしっかり握った。
寄宿舎の窓は皆雨戸が締まっていて、小使部屋だけ障子に明(あかり)がさしている。足音は僕の部屋に這入った。あちこち歩く様子である。
「今までランプが付いておったが、どこへ往ったきゃんの」
逸見の声である。僕は息を屏(つ)めていた。暫(しばら)くして足音は部屋を出て、梯子を降りて行った。
短刀は幸に用足たずに済んだ。
2005-12-30 17:26:54 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0) |
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僕だって人が大勢集って
煮食(にぐい)をするのを、ひとりぼんやりして見ているのは苦痛である。それを鰐口は知っていて、面白半分に仲間に入れないのである。
僕は皆が食う間外へ出ていようかと思った。しかし出れば逃げるようだ。自分の部屋であるのに、人に勝手な事をせられて逃げるのは残念だと思った。さればといって、口に唾の湧(わ)くのを呑み込んでいたら彼等に笑われるだろう。僕は外へ出て最中(もなか)を十銭買って来た。その頃は十銭最中を買うと、大袋に一ぱいあった。それを机の下に抛(ほう)り込んで置いて、ランプを附けて本を見ていた。
その中盲汁の仲間が段々帰って来る。炭に石油を打(ぶ)っ掛けて火をおこす。食堂へ鍋を取りに行く。醤油を盗みに行く。買って来た鰹節(かつおぶし)を掻く。汁が煮え立つ。てんでに買って来たものを出して、鍋に入れる。一品鍋に這入(はい)る毎に笑声が起る。もう煮えたという。まだ煮えないという。鍋の中では箸の白兵戦が始まる。酒はその頃唐物店(とうものみせ)に売っていた gin というのである。黒い瓶(びん)の肩の怒ったのに這入っている焼酎(しょうちゅう)である。直段(ねだん)が安いそうであったから、定めて下等な酒であったろう。
皆が折々僕の方を見る。僕は澄まして、机の下から最中を一つずつ出して食っていた。
Gin が利いて来る。血が頭へ上る。話が下(しも)へ下(さが)って来る。盲汁の仲間には硬派もいれば軟派もいる。軟派の宮裏(みやうら)が硬派の逸見(へんみ)にこう云った。
「どうだい。逸見なんざあ、雪隠(せっちん)へ這入って下の方を覗いたら、僕なんぞが、裾の間から緋縮緬(ひぢりめん)のちらつくのを見たときのような心持がするだろうなあ」
逸見が怒るかと思うと大違で、真面目に返事をする。
「そりゃあお情所(なさけどころ)から出たものじゃと思うて見ることもあるたい」
「あはははは。女なら話を極めるのに、手を握るのだが、少年はどうするのだい」
「やっぱり手じゃが、こぎゃんして」
と宮裏の手を掴(つか)まえて、手の平を指で押して、承諾するときはその指を握るので、嫌なときは握らないのだと説明する。
誰やら逸見に何か歌えと勧めた。逸見は歌い出した。
「雲のあわやから鬼が穴(けつ)う突(つ)ん出して縄で縛るよな屁(へ)をたれた」
2005-12-29 17:17:19 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0) |
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「おれがおらんと
又穴(けつ)を覗う馬鹿もの共が来るから、用心しておれ」
僕は用心している。寄宿舎は長屋造であるから出口は両方にある。敵が右から来れば左へ逃げる。左から来れば右へ逃げる。それでも心配なので、あるとき向島の内から、短刀を一本そっと持って来て、懐(ふところ)に隠していた。
二月頃に久しく天気が続いた。毎日学課が済むと、埴生と運動場へ出て遊ぶ。外の生徒は二人が盛砂の中で角力(すもう)を取るのを見て、まるで狗児(ちんころ)のようだと云って冷かしていた。やあ、黒と白が喧嘩(けんか)をしている、白、負けるななどと声を掛けて通るものもあった。埴生と僕とはこんな風にして遊んでも、別に話はしない。僕は貸本をむやみに読んで、子供らしい空想の世界に住している。埴生は教場の外ではじっとしていない性(たち)なので、本なぞは読まない。一しょに遊ぶと云えば、角力を取る位のものであった。
或る寒さの強い日の事である。僕は埴生と運動場へ行って、今日は寒いから駆競(かけくら)にしようというので、駈競をして遊んで帰って見ると、鰐口の処へ、同級の生徒が二三人寄って相談をしている。間食の相談である。大抵間食は弾豆か焼芋で、生徒は醵金(きょきん)をして、小使に二銭の使賃を遣って、買って来させるのである。今日はいつもと違って、大いに奢(おご)るというので、盲汁(めくらじる)ということをするのだそうだ。てんでに出て何か買って来て、それを一しょに鍋に叩き込んで食うのである。一人の男が僕の方を見て、金井はどうしようと云った。鰐口は僕を横目に見て、こう云った。
「芋を買う時とは違う。小僧なんぞは仲間に這入(はい)らなくても好い」
僕は傍(わき)を向いて聞かない振をしていた。誰を仲間に入れるとか入れないとか云って、暫(しばら)く相談していたが、程なく皆出て行った。
鰐口の性質は平生(へいぜい)知っている。彼は権威に屈服しない。人と苟(いやしく)も合うという事がない。そこまでは好い。しかし彼が何物をも神聖と認めない為めに、傍(はた)のものが苦痛を感ずることがある。その頃僕は彼の性質を刻薄だと思っていた。それには、彼が漢学の素養があって、いつも机の上に韓非子(かんぴし)を置いていたのも、与(あずか)って力があったのだろう。今思えば刻薄という評は黒星に中(あた)っていない。彼は cynic なのである。僕は後に Theodor Vischer の書いた Cynismus を読んでいる間、始終鰐口の事を思って読んでいた。Cynic という語は希臘の kyon 犬という語から出ている。犬学などという訳語があるからは、犬的と云っても好いかも知れない。犬が穢(きたな)いものへ鼻を突込みたがる如く、犬的な人は何物をも穢くしなくては気が済まない。そこで神聖なるものは認められないのである。人は神聖なるものを多く有しているだけ、弱点が多い。苦痛が多い。犬的な人に逢っては叶(かな)わない。
鰐口は人に苦痛を覚えさせるのが常になっている。そこで人の苦痛を何とも思わない。刻薄な処はここから生じて来る。強者が弱者を見れば可笑しい。可笑しいと面白い。犬的な人は人の苦痛を面白がるようになる。
2005-12-28 17:17:03 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0) |
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幸に鰐口は硬派ではなかった
どちらかと云えば軟派で、女色の事は何でも心得ているらしい。さればとて普通の軟派でもない。軟派の連中は女に好かれようとする。鰐口は固(もと)より好かれようとしたとて好かれもすまいが、女を土苴(つちづと)の如くに視ている。女は彼の為に、只性欲に満足を与える器械に過ぎない。彼は機会のある毎にその欲を遂げる。そして彼の飽くまで冷静なる眼光は、蛇の蛙(かわず)を覗(うかが)うように女を覗っていて、巧に乗ずべき機会に乗ずるのである。だから彼の醜を以てして、決して女に不自由をしない。その言うところを聞けば、女は金で自由になる物だ。女に好かれるには及ばないと云っている。
鰐口は女を馬鹿にしているばかりはでない。あらゆる物を馬鹿にしている。彼の目中には神聖なるものが絶待的に無い。折々僕のお父様が寄宿舎に尋ねて来られる。お父様が、倅(せがれ)は子供同様であるから頼むと挨拶をなさると、鰐口は只はあはあと云って取り合わない。そして黙ってお父様の僕に訓戒をして下さるのを聞いていて、跡で声(こわ)いろを遣(つか)う。
「精出して勉強しんされえ。鰐口君でもどなたでも、長者の云いんさることは、聴かにゃあ行けんぜや。若し腑(ふ)に落ちんことがあるなら、どういうわけでそう為(せ)にゃならんのか、分りませんちゅうて、教えて貰いんされえ。わしはこれで帰る。土曜には待っとるから、来(き)んされえ。あはははは」
それからはお父様の事を「来んされえ」と云う。今日あたりは又来んされえの来る頃だ。又最中(もなか)にありつけるだろうなんぞと云う。人の親を思う情だからって何だからって、いたわってくれるということはない。「あの来んされえが君のおっかさんと孳尾(つる)んで君を拵(こしら)えたのだ。あはははは」などと云う。お国の木戸にいたお爺さんと択ぶことなしである。
鰐口は講堂での出来は中くらいである。独逸人の教師は、答の出来ない生徒を塗板の前へ直立させて置く例になっていた。或るとき鰐口が答が出来ないので、教師がそこに立っていろと云った。鰐口は塗板に背中を持たせて空を嘯(うそぶ)いた。塗板はがたりと鳴った。教師は火のようになって怒(おこ)って、とうとう幹事に言って鰐口を禁足にした。しかしそれからは教師も鰐口を憚(はばか)っていた。
教師が憚るくらいであるから、級中鰐口を憚らないものはない。鰐口は僕に保護を加えはしないが、鰐口のいる処へ来て、僕に不都合な事をするものは無い。鰐口は外出するとき、僕にこう云って出て行く。
2005-12-27 17:16:39 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0) |
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軟派は数に於いては優勢であった
何故というに、硬派は九州人を中心としている。その頃の予備門には鹿児島の人は少いので、九州人というのは佐賀と熊本との人であった。これに山口の人の一部が加わる。その外は中国一円から東北まで、悉(ことごと)く軟派である。
その癖硬派たるが書生の本色で、軟派たるは多少影護(うしろめた)い処があるように見えていた。紺足袋小倉袴は硬派の服装であるのに、軟派もその真似をしている。只軟派は同じ服装をしていても、袖をまくることが少い。肩を怒らすることが少い。ステッキを持ってもステッキが細い。休日に外出する時なんぞは、そっと絹物を着て白足袋を穿(は)いたり何かする。
そしてその白足袋の足はどこへ向くか。芝、浅草の楊弓店、根津、吉原、品川などの悪所である。不断紺足袋で外出しても、軟派は好く町湯に行ったものだ。湯屋には硬派だって行くことがないではないが、行っても二階へは登らない。軟派は二階を当(あて)にして行く。二階には必ず女がいた。その頃の書生には、こういう湯屋の女と夫婦約束をした人もあった。下宿屋の娘なんぞよりは、無論一層下った貨物(しろもの)なのである。
僕は硬派の犠牲であった。何故というのに、その頃の寄宿舎の中では、僕と埴生(はにゅう)庄之助という生徒とが一番年が若かった。埴生は江戸の目医者の子である。色が白い。目がぱっちりしていて、唇は朱を点じたようである。体はしなやかである。僕は色が黒くて、体が武骨で、その上田舎育である。それであるのに、意外にも硬派は埴生を附け廻さずに、僕を附け廻す。僕の想像では、埴生は生れながらの軟派であるので免れるのだと思っていたのである。
学校に這入(はい)ったのは一月である。寄宿舎では二階の部屋を割り当てられた。同室は鰐口弦(わにぐちゆずる)という男である。この男は晩学の方であって、級中で最年長者の一人であった。白菊石(あばた)の顔が長くて、前にしゃくれた腮(あご)が尖(とが)っている。痩(や)せていて背が高い。若(も)しこの男が硬派であったら、僕は到底免れないのであったかと思う。
2005-12-26 17:16:24 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0) |
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「そんな事を言うものじゃない。さあ」
僕の手を取る。彼が熱して来れば来るほど、僕の厭悪(えんお)と恐怖とは高まって来る。
「嫌だ。僕は帰る」
こんな押問答をしているうちに、隣の部屋から声を掛ける男がある。
「だめか」
「うむ」
「そんなら応援して遣る」
隣室から廊下に飛び出す。僕のいた部屋の破障子をがらりと開けて跳(おど)り込む。この男は粗暴な奴で、僕は初から交際しなかったのである。この男は少くも見かけの通の奴で、僕を釣った男は偽善者であった。
「長者の言うことを聴かなけりゃあ、布団蒸(むし)にして懲(こら)して遣れ」
手は詞と共に動いた。僕は布団を頭から被せられた。一しょう懸命になって、跳(は)ね返そうとする。上から押える。どたばたするので、書生が二三人覗きに来た。「よせよせ」などという声がする。上から押える手が弛(ゆる)む。僕はようよう跳ね起きて逃げ出した。その時書物の包とインク壺とをさらって来たのは、我ながら敏捷(びんしょう)であったと思った。僕はそれからは寄宿舎へは往かなかった。
その頃僕は土曜日ごとに東先生の内から、向島のお父(とう)様の処へ泊りに行って、日曜日の夕方に帰るのであった。お父様は或る省の判任官になっておられた。僕はお父様に寄宿舎の事を話した。定めてお父様はびっくりなさるだろうと思うと、少しもびっくりなさらない。
「うむ。そんな奴がおる。これからは気を附けんと行かん」
こう云って平気でおられる。そこで僕は、これも嘗(な)めなければならない辛酸の一つであったということを悟った。
*
十三になった。
去年お母様がお国からお出になった。
今年の初に、今まで学んでいた独逸語を廃(や)めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代ったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだったとの為めである。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってから大分益(やく)に立った。
僕は寄宿舎ずまいになった。生徒は十六七位なのが極若いので、多くは二十代である。服装は殆(ほとん)ど皆小倉の袴(はかま)に紺足袋である。袖は肩の辺までたくし上げていないと、惰弱だといわれる。
寄宿舎には貸本屋の出入が許してある。僕は貸本屋の常得意であった。馬琴(ばきん)を読む。京伝を読む。人が春水を借りて読んでいるので、又借をして読むこともある。自分が梅暦(うめごよみ)の丹治郎のようであって、お蝶のような娘に慕われたら、愉快だろうというような心持が、始てこの頃萌(きざ)した。それと同時に、同じ小倉袴紺足袋の仲間にも、色の白い目鼻立の好い生徒があるので、自分の醜男子なることを知って、所詮(しょせん)女には好かれないだろうと思った。この頃から後は、この考が永遠に僕の意識の底に潜伏していて、僕に十分の得意ということを感ぜさせない。そこへ年齢の不足ということが加勢して、何事をするにも、友達に暴力で圧せられるので、僕は陽に屈服して陰に反抗するという態度になった。兵家 Clausewitz は受動的抗抵を弱国の応(まさ)に取るべき手段だと云っている。僕は先天的失恋者で、そして境遇上の弱者であった。
性欲的に観察して見ると、その頃の生徒仲間には軟派と硬派とがあった。軟派は例の可笑(おか)しな画を看(み)る連中である。その頃の貸本屋は本を竪(たて)に高く積み上げて、笈(おいずる)のようにして背負って歩いた。その荷の土台になっている処が箱であって抽斗(ひきだし)が附いている。この抽斗が例の可笑しな画を入れて置く処に極まっていた。中には貸本屋に借る外に、蔵書としてそういう絵の本を持っている人もあった。硬派は可笑しな画なんぞは見ない。平田三五郎という少年の事を書いた写本があって、それを引張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元旦に第一に読む本になっているということである。三五郎という前髪と、その兄分の鉢鬢奴(ばちびんやっこ)との間の恋の歴史であって、嫉妬(しっと)がある。鞘当(さやあて)がある。末段には二人が相踵(あいつ)いで戦死することになっていたかと思う。これにも挿画(さしえ)があるが、左程見苦しい処はかいてないのである。
2005-12-25 17:12:00 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0) |
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「うむ。大抵分かる」
「大抵分かりゃ沢山だ」
今までしゃべっていた話家が、起(た)って腰を屈(かが)めて、高座の横から降りてしまうと、入り替って第二の話家が出て来る。「替りあいまして替り栄(ばえ)も致しません」と謙遜する。「殿方のお道楽はお女郎買でございます」と破題を置く。それから職人がうぶな男を連れて吉原へ行くという話をする。これは吉原入門ともいうべき講義である。僕は、なる程東京という処は何の知識を攫得(かくとく)するにも便利な土地だ、と感歎して聴いている。僕はこの時「おかんこを頂戴する」という奇妙な詞を覚えた。しかしこの詞には、僕はその後寄席以外では、どこでも遭遇しないから、これは僕の記憶に無用な負担を賦課した詞の一つである。
*
同じ年の十月頃、僕は本郷壱岐坂(いきざか)にあった、独逸(ドイツ)語を教える私立学校にはいった。これはお父様が僕に鉱山学をさせようと思っていたからである。
向島からは遠くて通われないというので、その頃神田小川町に住まっておられた、お父様の先輩の東(あずま)先生という方の内に置いて貰って、そこから通った。
東先生は洋行がえりで、摂生のやかましい人で、盛に肉食をせられる外には、別に贅沢(ぜいたく)はせられない。只酒を随分飲まれた。それも役所から帰って、晩の十時か十一時まで飜訳(ほんやく)なんぞをせられて、その跡で飲まれる。奥さんは女丈夫である。今から思えば、当時の大官であの位閨門(けいもん)のおさまっていた家は少かろう。お父様は好い内に僕を置いて下すったのである。
僕は東先生の内にいる間、性慾上の刺戟(しげき)を受けたことは少しもない。強いて記憶の糸を手繰(たぐ)って見れば、あるときこういう事があった。僕の机を置いているのは、応接所と台所との間であった。日が暮れて、まだ下女がランプを点(つ)けて来てくれない。僕はふいと立って台所に出た。そこでは書生と下女とが話をしていた。書生はこういうことを下女に説明している。女の器械は何時でも用に立つ。心持に関係せずに用に立つ。男の器械は用立つ時と用立たない時とある。好だと思えば跳躍する。嫌だと思えば萎靡(いび)して振わないというのである。下女は耳を真赤にして聴いていた。僕は不愉快を感じて、自分の部屋に帰った。
学校の課業はむつかしいとも思わなかった。お父様に英語を習っていたので、Adler とかいう人の字書を使っていた。独英と英独との二冊になっている。退屈した時には、membre という語を引いて Zeugungsglied という語を出したり、pudenda という語を引いて Scham という語を出したりして、ひとりで可笑(おか)しがっていたこともある。しかしそれも性欲に支配せられて、そんな語を面白がったのではない。人の口に上(のぼ)せない隠微の事として面白がったのである。それだから同時に fart という語を引いて Furz という語を出して見て記憶していた。あるとき独逸人の教師が化学の初歩を教えていて、硫化水素をこしらえて見せた。そしてこの瓦斯(ガス)を含んでいるものを知っているかと問うた。一人の生徒が faule Eier と答えた。いかにも腐った卵には同じ臭がある。まだ何かあるかと問うた。僕が起立して声高く叫んだ。
『Furz !』
『Was? Bitte, noch einmal !』
『Furz !』
教師はやっと分かったので顔を真赤にして、そんな詞を使うものではないと、懇切に教えてくれた。
学校には寄宿舎がある。授業が済んでから、寄って見た。ここで始て男色ということを聞いた。僕なんぞと同級で、毎日馬に乗って通って来る蔭小路(かげのこうじ)という少年が、彼等寄宿生達の及ばぬ恋の対象物である。蔭小路は余り課業は好く出来ない。薄赤い頬っぺたがふっくりと膨(ふく)らんでいて、可哀らしい少年であった。その少年という詞が、男色の受身という意味に用いられているのも、僕の為めには新智識であった。僕に帰り掛に寄って行けと云った男も、僕を少年視していたのである。二三度寄るまでは、馳走をしてくれて、親切らしい話をしていた。その頃書生の金平糖といった弾豆(はじけまめ)、書生の羊羹(ようかん)といった焼芋などを食わせられた。但しその親切は初から少し粘(ねばり)があるように感じて、嫌であったが、年長者に礼を欠いではならないと思うので、忍んで交際していたのである。そのうちに手を握る。頬摩(ほおずり)をする。うるさくてたまらない。僕には Urning たる素質はない。もう帰り掛に寄るのが嫌になったが、それまでの交際の惰力で、つい寄らねばならないようにせられる。ある日寄って見ると床が取ってあった。その男がいつもよりも一層うるさい挙動をする。血が頭に上って顔が赤くなっている。そしてとうとう僕にこう云った。
「君、一寸だからこの中へ這入(はい)って一しょに寝給え」
「僕は嫌だ」
2005-12-24 17:11:40 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0) |
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「榛野でなくっては、
拭かないのは飲まして貰えないのだね」
「あら、榛野さんにだっていつでも拭いて上げまさあ」
「そうかね。拭いて上げるかね」
こんな風な会話である。詞が二様の意義を有している。※麻は僕がその第二の意義に対して、何等の想像をも画(えが)き得るものとは認めていない。女も僕をば空気の如くに取り扱っている。しかし僕には少しの不平も起らない。僕はこの女は嫌であった。それだから物なんぞを言って貰いたくはなかった。
※麻が楊弓を引いて見ないかと云ったが、僕は嫌だと云った。
※麻は間もなく楊弓店を出た。それから猿若町(さるわかちょう)を通って、橋場の渡(わたし)を渡って、向島のお邸に帰った。
同じ頃の事であった。家従達の仲間に、銀林と云う針医がいて、折々彼等の詰所に来て話していた。これはお上のお療治に来るので、お国ものではない。江戸児(えどっこ)である。家従は大抵三十代の男であるのに、この男は四十を越していた。僕は家従等に比べると、この男が余程賢いと思っていた。
或る日銀林は銀座の方へ往くから、連れて行って遣ろうと云った。その日には用を済ませてから、銀林が京橋の側の寄席(よせ)に這入(はい)った。
昼席(ひるせき)であるから、余り客が多くはない。上品に見えるのは娘を連れた町家のお上(かみ)さんなどで、その外多くは職人のような男であった。
高座には話家が出て饒舌っている。徳三郎という息子が象棋(しょうぎ)をさしに出ていた。夜が更けて帰って、閉出(しめだし)を食った。近所の娘が一人やはり同じように閉出を食っている。娘は息子に話し掛ける。息子がおじの内へ往って留めて貰うより外はないと云うと、娘が一しょに連れて行ってくれろと頼む。息子は聴かずにずんずん行くが、娘は附いて来る。おじは通物(とおりもの)である。通物とは道義心の lax なる人物ということと見える。息子が情人を連れて来たものと速断する。息子が弁解するのを、恥かしいので言を左右に托(たく)しているのだと思う。息子に恋慕している娘は、物怪(もっけ)の幸と思っている。そこで二人はおじに二階へ追い上げられる。夜具は一人前しか無い。解いた帯を、縦に敷布団の真中に置いて、跡から書くので譬喩(ひゆ)が anachronism になるが、樺太(からふと)を両分したようにして、二人は寝る。さて一寐入して目が醒(さ)めて云々(しかじか)というのである。僕の耳には、まだ東京の詞は慣れていないのに、話家はぺらぺらしゃべる。僕は後に西洋人の講義を聞き始めた時と同じように、一しょう懸命に注意して聴いていると、銀林は僕の顔を見て笑っている。
「どうです。分かりますかい」
2005-12-23 17:11:17 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0) |
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「御笑談(ごじょうだん)を
仰ゃいます。なかなか当節は警察がやかましゅうございまして」
帯封の本には、表紙に女の顔が書いてあって、その上に「笑い本」と大字で書いてある。これはその頃絵草紙屋にあっただまし物である。中には一口噺(ひとくちばなし)か何かを書いて、わざと秘密らしく帯封をして、かの可笑しな画を欲しがるものに売るのである。
僕は子供ではあったが、問答の意味をおおよそ解した。しかしその問答の意味よりは、※麻の自在に東京詞を使うのが、僕の注意を引いた。そして※麻は何故これ程東京詞が使えるのに、お屋敷では国詞を使うだろうかということを考えて見た。国もの同志で国詞を使うのは、固(もと)より当然である。しかし※麻が二枚の舌を使うのは、その為めばかりではないらしい。彼は上役の前で淳樸(じゅんぼく)を装うために国詞を使うのではあるまいか。僕はその頃からもうこんな事を考えた。僕はぼんやりしているかと思うと、又余り無邪気でない処のある子であった。
観音堂に登る。僕の物を知りたがる欲は、僕の目を、只真黒な格子の奥の、蝋燭(ろうそく)の光の覚束(おぼつか)ない辺に注がせる。蹲(しゃが)んで、体を鰕(えび)のように曲げて、何かぐずぐず云って祈っている爺さん婆あさん達の背後(うしろ)を、堂の東側へ折れて、おりおりかちゃかちゃという賽銭(さいせん)の音を聞き棄てて堂を降りる。
この辺には乞食が沢山いた。その間に、五色の沙(すな)で書画をかいて見せる男がある。少し広い処に、大勢の見物が輪を作って取り巻いているのは、居合ぬきである。※麻と一しょに暫く立って見ていた。刀が段々に掛けてある。下の段になるだけ長いのである。色々な事を饒舌(しゃべ)っているが、なかなか抜かない。そのうち※麻が、つと退(の)くから、何か分からずに附いて退いた。振り返って見れば、銭を集める男が、近処へ来ていたのであった。
楊弓店のある、狭い巷(こうじ)に出た。どの店にもお白いを附けた女のいるのを、僕は珍らしく思って見た。お父様はここへは連れて来なかったのである。僕はこの女達の顔に就いて、不思議な観察をした。彼等の顔は当前(あたりまえ)の人間の顔ではないのである。今まで見た、普通の女とは違って、皆一種の stereotype な顔をしている。僕の今の詞(ことば)を以て言えば、この女達の顔は凝結した表情を示しているのである。僕はその顔を見てこう思った。何故(なぜ)皆揃(そろ)ってあんな顔をしているのであろう。子供に好い子をお為(し)というと、変な顔をする。この女達は、皆その子供のように、変な顔をしている。眉はなるたけ高く、甚だしきは髪の生際(はえぎわ)まで吊(つ)るし上げてある。目をなるたけ大きく※(みは)っている。物を言っても笑っても、鼻から上を動かさないようにしている。どうして言い合せたように、こんな顔をしているだろうと思った。僕には分からなかったが、これは売物の顔であった。これは prostitution の相貌であった。
女はやかましい声で客を呼ぶ「ちいと、旦那(だんな)」というのが尤(もっとも)多い。「ちょいと」とはっきり聞えるのもあるが、多くは「ちいと」と聞える。「紺足袋の旦那」なんぞと云う奴もある。※麻は紺足袋を穿いていた。
「あら、※麻さん」
一際鋭い呼声がした。※麻はその店にはいって腰を掛けた。僕は呆(あき)れて立って見ていると、※麻が手真似で掛けさせた。円顔の女である。物を言うと、薄い唇の間から、鉄漿(かね)を剥(は)がした歯が見える。長い烟管(きせる)に烟草を吸い附けて、吸口を袖で拭いて、例の鼻から上を動かさずに、※麻に出す。
「何故拭くのだ」
「だって失礼ですから」

2005-12-22 17:10:59 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0) |
